FRONTIER JOURNEYとは

FRONTIER JOURNEYでは、サンフロンティアに関わる社内外で活躍するさまざまな「人」に焦点を当て、
仕事への想いや人生哲学を深くお聞きし、私たちが大切にしている「利他の心」や新しい領域にチャレンジし続ける「フロンティア精神」についてお伝えしています。
人々の多彩な物語をお楽しみください。

Vol. 009

「地元に感謝し、恩返ししたい」
代々続いた店を未来に受け渡す
老舗佃煮店社長の想いと覚悟

株式会社つきじ石井 代表取締役
石井 孝弘Takahiro Ishii

2022年9月16日

築地本願寺のほど近くに、2021年4月、保育園「さくらさくみらい築地」が誕生した。築地という歴史ある土地に、子どもたちの明るい声が響く情景――。誰の心にもあたたかな気持ちを灯すだろうその姿は、リノベーションという言葉だけではくくれない、さまざまな思いの交差の奇跡から生まれたものだ。Vol.08ではプロジェクトを導いた若き女性リーダーの思いを掘り下げたが、Vol.09では、当初のオーナーだった佃煮店「つきじ石井」社長・石井孝弘に話を聞く。祖父の代からこの地で商いを続けてきた石井家。地を明け渡す立場として、彼が見据えた未来とは。

「祖父が築地の地に起こした佃煮店」は
歴史を今に伝える特別な場所だった

「僕の人生なんて、本当に何もないですよ。もうね、ずっと中間管理職(笑)」。そう言って謙遜する石井氏は、老舗佃煮店「つきじ石井」三代目社長。歯切れのよい江戸弁で冗談を交えつつ、低姿勢でインタビューに答える。その姿は、社長という肩書とのギャップに拍子抜けするほどの“愛されキャラ”だ。「つきじ石井」が築地の地に誕生したのは、1947年。貧困にあえいだ石井氏の祖父が、戦後すぐにこの地で興した商売だったという。

「僕の曾祖父が北区の滝野川で鉄工所をやっていたのですが、それが戦前に経営破綻し、路頭に迷ってしまって、やむなく祖父が築地の佃煮店で丁稚奉公をしていたそうなんですね。で、戦時中懸命にお金をためて、独立し、築地に起こした会社が弊社なんです。当時は屋根裏部屋のある、木造二階半の建物でした」

社屋の並びには、銀座や新橋で働く芸者さん達の置屋があったという。つい40年ほど前のことだそうだが、東京のそんな情景には隔世の感を覚える。やはり築地で生まれ育った人ならではの特別な原体験といえる。

「ぼくが幼稚園生だったころの話です。隣の置屋を祖父が買い取り、広くなった土地に木造だった社屋をコンクリートに建て直したとき、子どもながらにすごく誇らしかったのを覚えています。社長室はどこだろう? 事務所はどこだろう?って、建設中からワクワクして見に来ていました」

「商売人にはなりたくなかった」男が、
祖父の遺言で家業に入るまで

ときはバブル期。時代の恩恵は佃煮業界、石井氏自身もその恩恵を存分に受けることになった。

「本当に売れたんですよ、佃煮が。商売がどんどん大きくなり、売り上げもみるみる大きくなった時代でした。特に当時の百貨店業界はイケイケどんどん。つきじ石井は西武百貨店に卸していたんですが、彼らが地方に出店したら、そこに一緒についていく感じ。西武百貨店と共に大きくなった。よく百貨店業界のピークは1991年と言われますが、うちのピークも同じでした」

そんな時代背景もあって、少年時代、欲しいものはなんでも買ってもらえた。漫画に出てきそうな典型的な“ボンボン”のエピソードには枚挙にいとまがないと笑う。

しかし、そんな不自由ない暮らしを送る一方で、「子どもの頃から、商売人にはなりたくなかった」と明かす。

「父と祖父が商売でぶつかっているのを見たり、小さいころから裏側の大変な部分をいろいろ見ていましたからね。“気楽な”サラリーマンになりたかったんです(笑)。商売以外の道を探してアメリカの大学に留学したんですが、そこでちょっとおもしろい出会いがありまして」

留学先のニューヨークに向かう飛行機の中でたまたま隣り合った紳士に気に入られ、懇意に。聞けば日本が世界に誇る大企業の常務取締役で、ニューヨークの大学を卒業後、アメリカの現地法人への就職を斡旋してくれるという話になったという。まさに石井氏の愛されキャラを象徴するような出来事だ。
しかし石井氏は、得難いその申し出を断ったという。理由は、「アメリカの文化を経験して、やっぱり築地に帰りたいと思って」。

「自分の本拠地は、やっぱり築地だなと思ったんです。当時、ニューヨークに住んでいる日本人のセレブがたくさんいましたが、現地で見ていてなんか中途半端な気がしていて。どんなに頑張っても日本人は日本人だなという風に見えた。自分が頑張る場所はやっぱり築地だなと、再確認するきっかけになりました」

しかし日本に帰っても商売人にはなりたくないという気持ちは変わらず、ホテル業界に就職。だが、当時のブラックな職場環境と給与体系に納得がいかず、1年あまりで退職することになる。

「仕事を辞めて少したったときに創業者の祖父が亡くなったんです。その祖父に、『会社に入って手伝ってくれ』と言い遺されまして。今までさんざんお世話になって、いい思いさせてもらって、ここはやっぱり恩返ししなければ、という気持ちで会社に入る決意をした。今から18年前のことです」

「家族への恩返し」への一心で、翻意して家業へ。商売に関しての矜持を聞くと、ひとつだけ祖父の教えを守っているという。

「食べ物を売る商売として、『いいものを売れ、ごまかしちゃダメだ』ということを口をすっぱくして言われました。食べ物って、値段に比例するんですよ。安くて高品質というのは、食べ物に関してはあり得ない。『原価ギリギリ』とか『赤字覚悟』とかよくテレビで言っていますが、僕自身、外食するとやっぱりこの値段だからこの味だなと、わかります。『ごまかしちゃいけない』という祖父の言葉は、ずっと守っていますね」

「いいものを作る」を続けていたら、
ブランドが育っていた

2004年、満を持して父親が経営する「つきじ石井」に入社した石井氏。しかし、すでに業界のピークは過ぎていた。
「百貨店の退店とともに、うちのような店も自動的になくなっていくわけですね。最盛期、全国に35、6のつきじ石井の店舗があったのが、ここ数年までに大幅に減少。2年前までは池袋と所沢にはお店があったんですが、コロナ禍でお客さまが来なくなってしまった。さらに販売員からも『コロナ感染が怖い』という声が上がって、そこで一度『もう思い切ってやめよう』と決断したんです」

いよいよ長年続いた家業を終わらせるときか――。しかし、そのとき思わぬ方角から光明が差す。

「百貨店に代わって、高級スーパー『ザ・ガーデン自由が丘』を運営するシェルガーデンさんからお声がかかったんですよ。業界的なことでいうと、百貨店のいわゆるデパ地下は小売り業に分類されますが、スーパーになると卸売りになるんですね。ありがたくお受けさせていただきまして、今ではつきじ石井の一番の売り上げ先です。小売りから卸にシフトして、生き残りをかけているという状況ですね」

それまで営業らしい営業をまったくしてこなかったという石井氏。しかし、派手な営業活動よりも、“いいものを売る”という商売魂を貫いたことが、あちこちで思わぬ副産物を生んでいたのだ。

「うちは社員数も少ないので、どうしても事務作業に追われ、営業活動が物理的に難しい。にも関わらず、思わぬところからお声をかけていただけるのは、前にデパートで見たとか、どこかで食べたことがある、ということがきっかけかもしれません。ありがたいことに、今でも引き合いがときどきあるんです。物好きな方が結構いらっしゃいますよね(笑)」

石井氏は謙遜するが、“思わぬところから声がかかる”という事実こそ、3代続いてきた老舗として、百貨店で長きにわたり「つきじ石井」というブランドが愛されてきた証拠だろう。さらに、それを象徴するエピソードがあるという。

「羽田空港の空弁にタレントのヨネスケさんがプロデュースする『ヨネスケのこだわり天むす』というお弁当があるんですが、試作しているときに、つきじ石井のきゃらぶきの佃煮を使ってくださったらしいんですね。それを、もう亡くなってしまいましたが落語家の桂歌丸師匠が試食され、気に入ってくださったのだそうです。後日、別の漬物を入れて歌丸師匠にもっていったら、『こないだ食べたきゃらぶきの佃煮と違う』とクレームが入ったそうです。それでヨネスケさんが慌てて、前のメーカーのものを買ってくるように指示されました」

スーツを着た男性が朝8時につきじ石井を訪れ、開口一番「きゃらぶきの佃煮を」と。珍しいお客さんだなと思いながら対応すると、グラムではなくキロ単位でほしいという話が持ち上がった。
それこそ、落語のような展開。まさに築地の老舗店にふさわしい名エピソードだ。

「今は、羽田空港の『ヨネスケのこだわり天むす』と『のり弁当』にも、つきじ石井のきゃらぶきの佃煮が入っていて、それがもう6、7年続いています。さらに、そのお弁当の評判がいいので、シェルガーデンさんに卸したり、サービスエリアでつきじ石井の佃煮が売られることになったりと、面白い形でいろいろ商売につながることになりました。そんないわくつきのきゃらぶきの佃煮、機会がありましたらぜひ召し上がっていただければと思います(笑)」

家庭・仕事・地元に「生かされている」
だからこそ、恩返しがしたい

「つきじ石井」の土地建物が保育園へ売却される話は、先代のときに決まったという。それが石井氏の耳に入ったのは、話がまとまった後のこと。聞いて驚く一方、「正直うれしかったですね」と当時を振り返る。

「実は僕自身はこの土地建物を売るときは、商売をやめるとき、とずっと思っていました。そして知らない会社に明け渡してまで…と、マイナスにしか捉えていませんでした。でも、保育園になって未来のある子どもたちが使ってくれるなら、すごくいいなと」

築地の地では今、昨今の不景気に地価の上昇と再開発のタイミングが重なり、店を手放す個人商店が相次いでいる。しかし、石井氏はその選択肢はとりたくなかったと明かす。

「長屋全部潰してマンションを建てて、上層階に等価交換で左うちわで暮らしていく。1階に店舗スペースもらって、それ貸して…。そういうのもひとつの在り方だと思うんですが、僕の主義じゃない。やっぱり地権者の世話にならざるを得ないわけですから。誰かにおんぶに抱っこの人生となるのは、僕にはピンとこない。独り立ちしていたいんですね」

店を畳む覚悟だったが、先代(父親)の引退話も加わって、「じゃあもう少し頑張ってみるか」と一念発起。まずは実店舗を持たないEC販売からリスタートした。

「娘が結婚するまではもう、何が何でも商売は続けようと。マンションのローンを払いきるぐらいまではやりたいですね。そうすると、だいたい30年、100周年を目指すことになります。勝算? あるわけないですよ(笑)。でもやらざるを得ない」

100周年に向かって前を見つめる石井氏。その覚悟を支えるものとは?

「僕の人生には、大事なものが3つあります。会社と家族、あと地元・町内会。この3つに育んでもらった。それを頑張って、これからも大事にしていく、というのが僕の人生です。商売も家庭もいろいろありますが、誠実に。祖父や父が神社の総代をやってきた歴史もあるので、先代が大事にしてきたものは自分ができる範囲で尊んでいきたい。そうそう、今度、築地の祭りの最高責任者になるんですよ。もう全方面に頭下げる立場。年下にも年上にも敬語です。僕の人生、やっぱり中間管理職なんですね(笑)」

生まれた土地に愛され、生まれた土地に根差して生きる。そんな一本筋が通った生き方は、どんな成功者が欲しても、お金を積んだだけでは手に入らない特別なものだ。

「結局、お金で買えないことが一番大事だと思うんです。どんな親の下に生まれるか、生まれたい場所や、こういう人と結婚したいなど、願っても自分ではコントロールできないことがある。自分の人生を振り返ると、本当に恵まれていると思います。東京・築地のど真ん中に生まれ育って、景気がいい時代を経験して、素敵な奥さんに恵まれて、娘が欲しいと思ったら生まれて。お金じゃ買えないものばかり。家庭でも仕事でも地元でも生かされている。だから、恩返して感謝を伝えたいんです」

思い出が詰まった地を手放すことは、誰にとっても一筋縄なことではないはずだ。しかし、所有の有無に関わらず、土地を愛し、周囲への感謝を一つひとつ伝えていくことこそが、本当の意味でその土地に根差すということなのかもしれない。
それを体現する「つきじ石井」、そして石井孝弘自身が築地の地で愛され続けていくことは間違いないだろう。

Next Frontier

FRONTIER JOURNEYに参加していただいた
ゲストが掲げる次のビジョン

家庭でも仕事でも地元でも生かされている。
それらに恩返しし、感謝を伝え続けていく。
編集後記

恵まれた環境で育ちつつも、そのことにきちんと感謝し、恩返しすることが人生と言い切る。まさに幸福の理想的な循環であり、利他の精神にのっとった生き方だろう。他者をうらやむことはたやすいが、「今、ここ」から、自分ならではの幸福の環を広げることに目を向けることの大切さに改めて気付きをいただいた。
老舗店から受け継いだ幸福のバトンが、園の子どもたちの明るい未来につながることを願ってやまない。

いかがでしたでしょうか。 今回の記事から感じられたこと、FRONTIER JOURNEYへのご感想など、皆さまの声をお聞かせください。 ご意見、ご要望はこちらfrontier-journey@sunfrt.co.jpまで。

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