FRONTIER JOURNEYとは

FRONTIER JOURNEYでは、サンフロンティアに関わる社内外で活躍するさまざまな「人」に焦点を当て、
仕事への想いや人生哲学を深くお聞きし、私たちが大切にしている「利他の心」や新しい領域にチャレンジし続ける「フロンティア精神」についてお伝えしています。
人々の多彩な物語をお楽しみください。

Vol. 013

100年守り続けてきた味、
そして街の活気を繋いでいきたい。
老舗蕎麦店を営む夫婦の半生

冨多葉 主人
冨山 和夫Kazuo Tomiyama

女将
冨山 美知子Michiko Tomiyama

2022年10月14日

Vol.11で紹介した「ILLUMIRISE(イルミライズ)神保町」のお隣にある、大正6年(1917年)創業の老舗蕎麦店、冨多葉(ふたば)。プロジェクトリーダーの小山の話にも登場した夫婦が営む店だ。“3年で7割が店じまいをする”ともいわれる飲食店の世界で、一世紀以上も前から今日まで、訪れる人のお腹と心を満たし、街のうつろいを眺めてきた。そんな名店には、激動の時代を生き抜いてきた歴史や、今も息づく昔気質の職人のこだわり、そして深い信頼で結びつく伝統的な夫婦の姿があった。

過酷な戦争体験を経た幼少時代と、
一人前の職人になるための昭和期の修行

「歴史とかなんとかっていうほど、そんなに大したことはないですよ。もともと、この場所には母親のお姉さんの蕎麦店がありました。ただ、そのおばさんに跡取りがいなかったもんだから、戦後、私が養子に入って、店を継いだんです」

人生の悲喜をすべて包み込むような雰囲気を持つ冨多葉の2代目店主、冨山和夫氏。さらに詳しく店の歴史を聞いてみると、その柔和な語り口とは反対に、我々が教科書で学んだ昭和史を生き抜いた人間の壮絶な体験が見え隠れする。
戦前生まれの和夫氏は、神保町にほど近い墨田区の「本所」で育った。幼い頃から、叔母の店にはよく遊びに来ていたという。しかし、平穏な少年時代は、太平洋戦争という時代の暗雲に巻き込まれる。東京への空襲が始まると、和夫氏は千葉県へと学童疎開をした。

「私の疎開中、母親がね、3/10の東京大空襲に巻き込まれて亡くなりました。行方不明です。私も見たことがありますが、空襲で亡くなった人の遺体は、焼け焦げて判別できないんです。悲しかったね。
疎開してしばらくすると千葉県にも空襲が来るようになり、今度は群馬県へ疎開して終戦を迎えました」

終戦後、父親の親戚を頼って千葉県の下総中山へと移り住んだ和夫氏。ご存命であった叔母の店に遊びに来ると、戦前とはまるで異なる光景が広がっていた。

「このあたり一帯、すべて焼け野原。驚いたね。もちろん店も無くなっていました。
ただ、店を再建するまでの間も、防空壕を利用した半分地下の掘っ建て小屋で、酒場のような商売をしていましたね」

その後、世田谷へと移った和夫氏は、夜間の明治大学法学部を卒業し、世田谷区役所の臨時職員になった。しかし、数ヶ月後、再建した叔母の店で人手が足りないという話を聞き、店を手伝うため養子になることを決意する。和夫氏はそれまで飲食店で働いた経験もなく、戸惑いの連続だった。

「お店には職人さんがいたんですが、お汁のつくり方以外はすべて『見て覚えろ』。お汁のつくり方を聞いたところで、同じ味にはできませんしね。今では見かけませんが、蕎麦や丼を載せたお盆を肩にかついで自転車で配達するのも全然できない。だからお盆を手で持って配達していましたよ。何往復もしてね。それでも教えてくれないから、当時は『頑張って1人前になろう』という気持ちと、『まぁ仕方ないけど……』という気持ちが半々だった(笑)」

そう言って笑う和夫氏だが、朝5時に起きて、くる日もくる日も職人の所作を細かく分析し、毎日手を動かしながら、少しずつ蕎麦打ちや安定したお汁のつくり方などを習得していった。

「難しいのは、意外と『かき玉』なんです。卵が生っぽいのは論外だし、固すぎるのもダメ。お汁のなかでフワッと柔らかい卵を浮かすのはすぐにはできません。練習を繰り返して、3〜4年くらいで少しずつできるようになりましたね」

蕎麦職人として一人前になってきたと感じてはじめたのと同じ時期に、和夫氏は人生の伴侶となる美知子氏と結婚をする。

混迷の時代を夫婦で懸命に働いて店を守り、
息子夫婦へと受け継がれる冨多葉の流儀

和夫氏が冨多葉で修行をはじめた頃、美知子氏はすぐ近所の有名な和食店で働いており、2人は顔馴染みだった。

「お互い飲食店で働いているから、出前のときとかに顔を合わせていたんですね。お父さんは普段は無口ですから、ちょっと怖そうだなって(笑)。ただ、親戚なんかに会社勤めより商売している人のほうが気も合うんじゃないかと勧められてね。おばさんも明るくて元気な人だったので、それじゃあと思って。それから一緒になって、なんとなく一緒に店をはじめて60年経ちました(笑)」(美知子氏)

夫婦で60年間も飲食店を続ける道のりには多くの苦労があったことは、想像に難くない。特に昭和40年代は子どもを授かったこともあり、目の回る忙しさだったという。

「神保町は出版の街ですから、印刷や製本、運送の会社がたくさんあって、当時は景気もよく残業も多かったから夜になると出前の注文が山のように来てね。今はやってないけど、『大晦日の営業』や『お酒の提供』もしていたので、12月31日は“年越し蕎麦”から、“初詣終わりの乾杯”まで寝ずに働きました」(和夫氏)

「赤ちゃんをおんぶしながら配達したこともありますよ。当時のオムツは布製で手洗いだから、家事にも相当な時間がかかって毎日2、3時間寝れればいいほう。大変でしたね」(美知子氏)

まさに、昭和期の働き方を体現してきた2人だが、そのしわ寄せから美知子氏が体調をくずし、入院したこともある。

「お母さんが仕事中に倒れて2週間入院。普段は元気な人だから、あのときは本当に心配でしたね」(和夫氏)

「心配していたようには見えなかったけど(笑)」と笑う美知子氏だが、入院中、「お昼だけでもお店に戻らせて欲しい」と先生にお願いするほど、忙しい店が心配だったという。

そんな両親の懸命に働く姿を見て育った影響もあり、数年前から、息子夫婦が3代目と若女将として店に立ち、高齢の和夫氏と美知子氏を支えている。ただし、息子だからといってすぐに継げるほど、老舗の味をつくるのは簡単ではない。息子夫婦も一人前の職人になるべく、“冨多葉流”の修練を乗り越えたのだという。

「もちろん教えなんかしませんよ。息子夫婦だからってうちの蕎麦をつくるなら『見て覚えろ』です。今はもう一人前になって、息子が私たちに向かって『もっと丁寧につくって』なんてことを言うようになりましたけどね(笑)」(和夫氏)

伝統ある職人の世界の『見て覚える』指導は、今日では是とされないことも多い。しかし、冨多葉では、半端に教えない分、和夫氏と美知子氏はもちろん、3代目も若女将も、すべての調理やオペレーションを二世代四人とも完璧にこなすことができる強みがある。

「飲食店で分業をしないのは珍しいみたい。でもそのおかげで、どんなときでも、順序よくの店の味を出せるんですよ」(美知子氏)

こうした独自のスタイルは、100年にわたり愛される味を生み出している秘訣の1つだろう。さらに、メニューや営業スタイルは時代に合わせて変化をしているが、そこには和夫氏と美知子氏の魂を受け継いだ息子の提案があった。直接口に出して褒めることはない職人気質の和夫氏でも、このときばかりは目を細めてうれしそうに話してくれた。

「カツ丼と親子丼が半分ずつの『半々丼』っていうメニューは息子の提案。最初は、気乗りしなかったけど、今や人気で、持ち帰りの注文も多いんですよ。それと、蕎麦の持ち帰りは麺が伸びたり、味が変わっちゃうから私はやりたくなかったんですが、息子が実際に蕎麦を持って町内を歩き回って『○分以内なら大丈夫だ』って。それから、お客さんに『どの辺まで行きます?』って聞いて、近場なら安心して出せるようになりました」(和夫氏)

神保町の変化を肌で感じてきた夫婦から見ても、
「ILLUMIRISE神保町」は納得の仕上がりに

実は「ILLUMIRISE神保町」の建設に対し、最初は不満があったという和夫氏と美知子氏。工事現場に密接した場所で働く2人にとって、今回のプロジェクトリーダーをになった若手社員の小山はどのように見えていたのだろうか。

「最初の頃に工事の時間や後片付けのことをお願いしたんですが、なかなか対応してくれないことがあって。小山さんは業者に伝えてくれていたみたいですが、私も気が強いもんだからガーって言っちゃってね。近所の別の工事では、時間もきっちりと守ってくれて、1日の最後には水を撒いてきれいにしてくれていたから、『若いんだからこういうのを見て勉強しないとダメよ』なんて。 私の口調に小山さんはびっくりしながらも素直に受け入れてくれて、そこからはすごく丁寧にやってくれました。すぐに対応できないことがあるのも分かるから、それも含めて説明してくれてね。何度も話しているうちに、すっかり仲良しです」(美知子氏)

「私はね、『隣近所で工事するんだったら、まずは信頼関係をつくらないと後々問題になるよ』ってそのひと言だけ。小山さんが私と同じ明大法学部卒って聞いてから、親近感が湧いて“弟”って感じですよ(笑)」(和夫氏)

完成した「ILLUMIRISE神保町」は、長年街の景観を見てきた2人にとっても、納得の行く仕上がりだった。

「このあたりは夜になるとすごく暗くなるから、ちょっと怖いなと感じる人もいたと思うんですが、1階部分に照明がある『ILLUMIRISE神保町』のおかげで、街が明るくなったかなと。同時に照明の優しい光や、外観のレンガづくりには上品さもあって。最初はどうなることか心配でしたが(笑)、今では隣に素敵な建物ができたてよかったなと思います」(美知子氏)

100年以上続く老舗店の
店主夫婦が考える次なる目標

和夫氏や美知子氏にとって、何よりの目標は100年以上も変わらずに受け継がれてきた冨多葉の味を守っていくことだ。

「店で使う鰹節も蕎麦粉も、材料はすべて創業当時と同じところから仕入れています。長ネギなんかは今では安く手に入るけど、昔と変わらず中身の詰まったいいものを使っていますしね。レシピも変わっていないから、100年前と同じ味なんですよ。久しぶりに来たお客さんに『変わってないね』って言ってもらえるのはすごくうれしい。だからこの味は守っていきたいね」(和夫氏)

「『お店が変わらずにあってよかった』なんて言ってくれるお客さんもいます。息子にも考えがあるかもしれないけれど、できる限りはね、続けて欲しいです」(美知子氏)

また、長年にわたって神保町を見てきた2人は、変わっていく街に対して、うれしい部分と寂しい部分の両面を感じているという。

「街が便利できれいになるのはすごくいいこと。いろんな人にとって住みやすくなりますから。ただ、昔は、近所の子どもを銭湯に連れて行くとか、街の大人みんなで子どもの世話をするのがこのあたりでは当たり前でした。その頃の温もりみたいなのがなくなってしまったのは少し悲しいですね。今の若い夫婦は仕事がすごく忙しいらしいから、近所の大人たちで面倒をみれたら便利なのにって」(美知子氏)

「昔は、このあたりも家族で住んでいる人ばかりでしたが、今では会社のビルがずいぶん多くなりました。都内でも交通の便がいい場所だからそれは仕方ない。でも、学生さんや1人暮らし用のワンルームマンションが増え、街の行事に参加する人が減っているんですね。神保町は神田明神の氏子といわれる地域ですから、お祭りもすごく盛り上がるんですが、そうした街の賑わいが薄れてきてしまうのは寂しいかな。
ご近所のおかげで100年以上も同じ場所でお店が続いたんだから、店の味を守るのはもちろん、地域の文化も守る手助けをしていきたいね」(和夫氏)

流行や技術、そして自分自身も含め、あらゆるものが高速で変化を続ける現在。前だけを見て進める人ばかりではないだろう。自分の足跡を見つめ直し、昔と今の自分の距離を測るには、“変わらない場所”が街には必要なのだ。それはきっと街への愛着につながっていくはずだ。
一度は離れても望んだときには立ち返れる、街の優しい定点。あの頃と同じ空気が今日も冨多葉を包んでいる。

Next Frontier

FRONTIER JOURNEYに参加していただいた
ゲストが掲げる次のビジョン

「100年以上変わらない蕎麦の味」、
そして「温もりや賑わいのある街」を守り続ける。
編集後記

“現在も営業を続ける世界最古の企業”があり、世界で創業200年以上の歴史を持つ企業の約半数が集中している日本は、実は“老舗大国”なのをご存知ですか?
歴史のある企業が多いのは、長男が家業を継承し、一家の生活を支えるという家督制度が法律によって定められていた(現在は廃止)ことや、大規模な政変が少なかったことが背景にあります。
今回ご紹介した冨多葉を含め、老舗企業の経営において共通するのは、ビジネスの核となる“変わらない部分”と、時代に合わせた“変わる部分”の双方が重なり合って歴史を繋いでいっているのでしょう。“変わらない部分”を改めて発見し、それを強みとして生かしていく発想は、今日の企業にとって勇気のいることかもしれません。新しさに価値を見出す現代において時代錯誤とも捉えられかねませんから。
冨多葉を見ていると、店を営む経営側の意思はもちろん、長年のお客様の「変わって欲しくない」という思いが、店の変わらないアイデンティティを生んでいるのだと感じます。日本企業に数多く残る息の長い企業は、関係者とともにつくりあげているという謙虚な顧客志向の大切さに改めて気付かされる機会をいただきました。

いかがでしたでしょうか。 今回の記事から感じられたこと、FRONTIER JOURNEYへのご感想など、皆さまの声をお聞かせください。 ご意見、ご要望はこちらfrontier-journey@sunfrt.co.jpまで。

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