FRONTIER JOURNEYとは

FRONTIER JOURNEYでは、サンフロンティアに関わる社内外で活躍するさまざまな「人」に焦点を当て、
仕事への想いや人生哲学を深くお聞きし、私たちが大切にしている「利他の心」や新しい領域にチャレンジし続ける「フロンティア精神」についてお伝えしています。
人々の多彩な物語をお楽しみください。

Vol. 035

「できない」とは、決して言わない、
「できる」に結びつける
建築士の技能と造形

株式会社季組一級建築事務所 代表
大澤 一隆Kazutaka Ohsawa

2023年6月2日

2021年2月、国内屈指のリゾート地である沖縄県恩納村に開業したコンドミニアム型のリゾートホテル「HIYORIオーシャンリゾート 沖縄」。203ある全室がオーシャンビューのスイートタイプながら、各部屋にはキッチンや洗濯機付乾燥機などの長期滞在向けの設備も完備。非日常の空間と機能性を見事に共存させた、まさに「暮らせるリゾート」になっている。
この夢のリゾート空間を設計したのが、株式会社季組の建築士・大澤一隆氏だ。ゼネコン、ディベロッパーでたたき上げ、ホテルや大規模マンションから下町の小さなテナントビルまで隔てない情熱で任にあたる大澤氏に、サンフロンティア代表の堀口も絶大な信頼を寄せる。そのプロとしての信念に迫った。

ゼネコンでたたき上げた駆け出し時代。現場での経験が建築士としての基礎力に

鋭い眼光が、その職人気質を物語る。季組の代表であり一級建築士の大澤氏は、これまで大小合わせて100件以上の案件を手掛けてきたエキスパートだ。
小さいころからモノをつくることが好きで、工作が得意だったという大澤氏。武蔵野美術大学を卒業後、業界準大手のゼネコンに入社したところから、そのキャリアはスタートする。
しかし設計士の枠での採用だったにも関わらず、入社後最初の1年間、図面に触ることはほとんどなかったという。

「まずは、現場だと。入社後1年目は地方の山の中のゴルフ場建設など、ゼネコンならではの大きな現場に派遣されて、建設業の仕組みを徹底的に叩き込まれました。実際に建物の設計をはじめたのは、そのあと。本属は東京ながら、新卒1年目は、地方のいろんな現場を飛び回っていましたね」

真っ黒に日焼けし、ときにどやされながら現場を走り回る姿は、 “事務所でじっくりと図面と向き合う”設計士のイメージとは大きな隔たりがある。しかし、当時の経験こそが、現在の大澤氏の職人としての基礎になったようだ。

「2年目からいよいよ設計の仕事がはじまったんですが、小さい建物から超高層ビルまで、いろんな案件が次々くる。1年目にいきなり大きな現場に放り込まれ、怒鳴られながらがむしゃらに知識を吸収した経験があったから、その後どんな依頼がきても、萎縮することなく立ち向かえるようになったと思います」

“街”をまるごと手掛けた大仕事。

震災時に、その真価が明らかに

ゼネコン時代を経て、不動産総合ディベロッパーに転職。建築がメインのゼネコンから、土地開発から企画するという、異なる畑への転職。だが、そこに「とまどいはなかった」と振り返る。

「ゼネコンであれ、ディベロッパーであれ、企画を立てて、それが通ればやりたい設計ができる。そこに大きなちがいはなかったんです」

えり好みせず仕事にあたるなかでも特に印象深かったと振り返るのが、30代で手掛けた南船橋の大規模マンションだ。

「1,000戸以上のでっかいマンション。あれはすごかった。敷地内に商業施設を入れて、中庭が桜並木もある立体庭園になっていたり。本当に街を丸ごと造った感慨がありました」

そのスケール感が、誰しもに理解されやすい華やかな大仕事といえるだろう。しかし大澤氏の仕事の真価がつまびらかにされたのは、その竣工から数年後、東日本大震災のときだった。

「震災があり、埋め立て地だったあのあたりの土地の液状化が大きな問題になりました。僕たちがつくったマンションは地上75mくらいの高層だったんですが、液状化対策と中間免震をしっかり入れていたので、被害がなかったんです。液状化対策の設備ってずっと動かしていなきゃいけなくて、維持費がかかるので、竣工当初は管理組合から怒られたこともありましたが、地震をきっかけに、その対策の大切さをわかっていただくことができました」

しっかりと対策をすることができたのは、大澤氏のなかにその知見があったからこそ、だ。そういった最新技術を重要と捉え、学び続ける努力も「キャリアのとば口でゼネコンにいたからこそ、身につけられたこと」と語る。

「大規模な案件になるといろんな会社が各セクションを担当していくわけですが、構造設計で最先端の技術を担当するのって、だいたいゼネコンなんです。ゼネコン時代に現場でいろいろ試していたことが、自分の知識の基礎になっている。もちろん自分ひとりでその技術を実装することなんてできませんよ。できないけど、知識として知っているから、口で提案することはできる。それもあって、独立した今もいろいろと仕事がいただけているんじゃないかな」

所属していた会社が倒産。

手掛けた仕事が運命の出会いを運ぶ

実地で学んだ知識と経験を着実にモノにし、次の仕事に応用する。そうして常にスキルのアップデートを図りながら、その後もさまざまな案件に携わってきた氏。そして2000年代の後半に沖縄で手掛けたホテルが、次の転機を招いた。

「当時の日本では珍しい、コンドミニアム型のホテルです。実験的な企画で面白かったんですが、ホテルの開業寸前に僕が当時所属していた会社が経営破綻しちゃって。当時はどうなることかと思いましたね」

しかし、運命はどう転がるかわからない。ホテルはそのまま運営を別会社に引き継がれ、評判を聞きつけて視察に訪れたサンフロンティア会長・堀口の目にとまったのだ。

「そこから僕と堀口さんとの付き合いがはじまったんですよ。彼のなかで、コンドミニアム型というテーマのホテルを、さらに一歩進化させた形にしたいという構想があった。驚いたことに、計画されている場所を聞いたら、かつて私が所属する企業が手掛けるはずだった場所なんです。同じ土地で2度も自分に声がかかったというのは、不思議な縁を感じましたね」

クライアントとは真剣勝負。「できない」とは絶対言わない。

堀口との「HIYORIオーシャンリゾート 沖縄」の仕事は、あまたの難題を乗り越えてきた一騎当千の大澤にとっても、刺激的な体験だった。

「『オーシャン』に関しては、全室オーシャンビューという構想は当初からあったものの、度重なるディスカッションを経て少しずつ今の形が出来上がってきました。堀口さんはとにかく勉強熱心で、バイタリティと動きの速さがすごい。例えばハワイの『TRUMP INTERNATIONAL HOTEL WAIKIKI』が参考になりそうだ、となったら『じゃあすぐに一緒に見に行こう』となる。ゲストをわくわくさせるためのアイデアもどんどん出てくる。当初はなかった温浴施設の計画が突然持ち上がったり、竣工の半年前に増築の打診がきたり、その妥協のなさに驚きました」

全室オーシャンビューに加え、ゲストルームとフラットにつながるインフィニティテラス、森を臨むオーナーラウンジなど、堀口とのやりとりで生みだされた非日常的な仕掛けは枚挙にいとまがない。

白眉は、多くの滞在客の目に焼き付くであろうエントランス。雑誌『近代建築』の表紙も飾った広い海と空に抜けるエントランスは、『HIYORIオーシャンリゾート 沖縄』を代表する景観のひとつとなっている。

「駐車場をぐるりとのぼってたどり着く先に、あの印象的なエントランスがある――というのは、それこそ計画の当初からあったんですが、地形的に非常に難しいチャレンジでもありました。建設前にはもともと山が2つあり、その土を外に出さずに埋めるようにして、地形を変えていく作業が必要だったんです。そのための地元の調整なども僕たちの仕事です。そういったバランス感覚は、ディベロッパー時代の経験が強く活きているように感じます」

一方で、堀口とは必ずしも意見が合うときばかりではなく、建築士の立場から対立意見を遠慮なくぶつけたという。

「堀口さんは当初、とにかくホテルの前を走る国道から車を敷地に引き入れる導線にこだわっていたのですが、地形や立地上、絶対に無理な部分もありました。でもお客様の視点からそこは堀口さんも譲れなかったようで、2人で周辺を何度も何度もぐるぐる回って、ようやく諦めてもらいました。20~30回くらい往復したんじゃないかな(笑)。お風呂の件でももめましたね。今でも覚えているんですが、おおよそ風呂の試作版が出来上がったあと、1月1日にたまたま事務所にいたら堀口さんから電話がかかってきて。『いや、お風呂のイメージはこうじゃないんだ』と。こっちも、『じゃあ絵を描いてイメージを具体的に見せてほしい』と言ったりして、元旦から丁々発止したのをよく覚えています」

クライアントへも忌憚のない意見をズバズバ言う大澤氏のスタンスは、仕事に対しての真摯な姿勢の現れに相違ない。
ただし、大澤氏にはひとつだけ絶対に言わないと決めていることがある。それは、「できない」という言葉だ。

「できないとは絶対言わないですね。いただいたオーダーに対しては、必ず何らかの答えを出すようにしています。『HIYORI』の案件でも、できないとは1回も言いませんでした。他はいろいろ言いますけど(笑)」

現在、堀口からは3日に1回くらい電話がかかってくる仲だと明かす大澤氏。クライアントに過分に忖度するのではなく、真剣に向き合うことこそ、真の信頼につながることの証左だ。

次の目標を見据えつつ、地に足をつけて目の前の仕事に取り組む

建物は、建てて終わりではない。むしろ竣工からがスタートだ。手掛けた建築物が自分の手を離れ、そこでさまざまな人生が営まれ、新しい物語が始まることを、建築士としてどうとらえているのだろうか。

「建築って、箱をつくるだけなんで、それをどう使うかっていうことは人それぞれだと思っています。だから、自分からはあまり手掛けた建物のその後の情報を追ったりはしない。でも、先日『オーシャン』に泊まったお客様がSNSにあげていた写真を、たまたまスタッフに見せてもらったらめちゃくちゃ雰囲気が良くて。『ああ、いいね』って素直に思ったんですよね。そういうときが、この仕事の喜びかなと思います」

がむしゃらに大小さまざまな物件を手掛け、50代となった現在。大澤氏が一番やりたい企画は、人の暮らしをデザインするような街づくりだという。

「うちは、スタッフみんな宅建の資格を持っている。だから街づくりの事業もできるはずなんです。いつか個の建築物を超えて、街づくりや暮らしづくりに本気で勤しみたい。『オーシャン』のような大掛かりなプロジェクトと並行して、もう10年くらい、小規模な物件を手掛けている東京・三軒茶屋周辺の土地があります。バブルの再開発で取り残された、ごちゃごちゃした狭い場所。そこで15坪くらいの小さい店が入れるテナントを建てたりして、今3棟目です。大規模マンションやリゾートホテルに比べたら小さい案件ではあるんですが、地道に街づくりをしている感じが楽しいんですよね」

同時に、仕事漬けだったこれまでの人生を振り返り、趣味的な生活への憧れも隠さない。

「朝起きたら3時間くらい畑をやって、その後事務所で仕事してって生活が夢なんですよ。もう土地も購入しているし本当は一刻も早くやりたいんだけど、今も同時に4件くらいのプロジェクトが進行していて、あっち行ったりこっち行ったり……。60歳くらいまでに実現するのが目標かな」

取材時も沖縄から帰ってきた直後という多忙ぶりで、「趣味の自転車も、もうずっと乗れてないんだよ」と事務所の片隅に置かれた自転車を前にこぼす大澤氏。
しかし言葉とは裏腹に実に楽しそうなその笑顔に、人生の充実とは何かを垣間見た気がした。

Next Frontier

FRONTIER JOURNEYに参加していただいた
ゲストが掲げる次のビジョン

人の暮らしそのものをデザインする
街づくりに取り組みたい
編集後記

まさに「充実」といった表現が相応しい大澤さんの笑顔。職人気質で、ときにユーモラスな大澤さんの人柄にすっかり魅了されてしまった取材でした。どんな職業でも、結局最後にモノをいうのは人間力。そしてその人間力とは、他人に妥協なく本音でぶつかり、謙虚に勉強を重ねながら一つひとつの仕事にぶつかることで磨かれていくもの――。上辺の知識ではなく、一人の人物の言葉を介した実感として説得力があり魅了されていきました。彼が夢を実現していく街からどんな空が見えるのかしら、どんな空気が流れるのだろう、そんな想像に駆られながら季組の事務所を後にしました。

いかがでしたでしょうか。 今回の記事から感じられたこと、FRONTIER JOURNEYへのご感想など、皆さまの声をお聞かせください。 ご意見、ご要望はこちらfrontier-journey@sunfrt.co.jpまで。

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