FRONTIER JOURNEYとは

FRONTIER JOURNEYでは、サンフロンティアに関わる社内外で活躍するさまざまな「人」に焦点を当て、
仕事への想いや人生哲学を深くお聞きし、私たちが大切にしている「利他の心」や新しい領域にチャレンジし続ける「フロンティア精神」についてお伝えしています。
人々の多彩な物語をお楽しみください。

Vol. 049

キラキラと輝く佐渡の未来を見通す
老舗酒蔵を切り盛りする五代目蔵元の半生

尾畑酒造五代目蔵元
尾畑 留美子Rumiko Obata

2023年12月22日

1892年、明治時代中期に創業した佐渡の老舗酒蔵、尾畑酒造。主に佐渡産の酒米を醸した代表銘柄「真野鶴」は、国内のさまざまな鑑評会で金賞を受賞し、さらにアメリカやカナダなどでも高い評価を得ている。
尾畑酒造の五代目蔵元として、酒造りはもちろん、酒蔵の運営全般に手腕を振るう尾畑留美子氏は、有名大学の法学部を卒業し、映画配給会社で映画の宣伝を行なっていたという一風変わった経歴の持ち主だ。どんな仕事であれ一本筋の通った強い芯を持ち、失敗を厭わずいつまでも成長を楽しむ尾畑氏は「こうありたいと願う大人としての理想像」の一人だろう。シャープな頭脳と鋭敏な感覚、悲喜こもごもの人生経験をもつ尾畑氏の言葉から、“キラキラと輝く未来の佐渡”の一端をのぞかせてもらった。

島の外への憧れを抱き続け、世界で活躍する映画の宣伝プロデューサーに

尾畑氏は尾畑酒造の次女として生まれた。老舗酒蔵の家柄というと古き良き時代の厳格な親子関係を想像するが、「家業を営む商売人である四代目蔵元の父親と、酒造りと子育てを両立する母親に囲まれた普通の家庭でした」と尾畑氏。とはいえ、幼い頃の遊び場が仕込み蔵だったというのは酒蔵ならではだ。
幼少期の尾畑氏が大きな影響を受けたのが、「兼高かおる世界の旅」というテレビ番組。日本の女性ジャーナリスト兼高かおる氏が世界各国を訪れ、現地の人のインタビューをしながら文化や風景などを紹介する約30年続いた番組だ。

「海外旅行なんて自由にできない時代でしたから、1人の女性が世界中の国々を訪れ、住んでいる人々の暮らしに触れ合う姿を見て、『あんなふうになりたいな』なんて思いました。日曜の朝に放送されていたのですが、毎週夢中になって観ていました」

こうした番組の影響もあり、島の外に強い興味をもつようになった尾畑氏。離島生まれの子どもは、「島を離れたくない」人と「外の世界に憧れる」人に分かれるそうだが、尾畑氏は圧倒的に後者だった。

高校時代、「島の外に出たい」という気持ちをモチベーションに勉強を重ね、都内にある有名大学の法学部に合格。大学進学を機に上京を果たした。「法学部にあまり深い意味はなく、単に“勉強っ子”だったから(笑)」と尾畑氏は笑う。

当時の東京はバブル全盛で、いわゆる“女子大生ブーム”の時代に大学生になった尾畑氏。憧れの大学時代を謳歌し、あっという間に就職の時期になった。当初、就職試験では「落ちまくった」というが、徐々にコツをつかみ、見事コンサルティング会社の内定を得た。しかし、ここで人生を左右する大きな出合いを果たす。

「学生課に行ったときに映画配給会社が宣伝担当を1人だけ募集しているという情報を見つけて。そのときも色々な世界を見てみたいという気持ちは強く、『ちがう世界へ2時間の旅をする』映画も大好きだった。だから『まぁ記念に受けてみるか』くらいの軽い気持ちで申し込んだら、合格しちゃったんです」

試験会場には9名しかおらず、いきなり最終面接だったのだが、後で聞くと900名もの申し込みから選ばれた9名だったという。コンサルティング会社の内定は捨てがたかったが、“2時間の旅”を届ける仕事のほうが面白そうだと直感した。

映画配給会社では宣伝プロデューサーとして、誰もが知る数々のハリウッド映画のプロモーションを担当し、成功を収めていった。

「配給会社での仕事はすごく面白かったですね。映画のテーマや内容によって宣伝方法が異なるので、作品ごとに自分でアイデアを捻り出さなければいけないんです。ルーティーンはほとんどないし、毎回が新しい挑戦。もちろん失敗もしますが、それでも新しいことをすれば褒めてくれる上司もいて、いい職場だったなと思います」

自分が本当にやりたいことを見つめ直し、佐渡に戻ることを決意

東京で大好きな映画に関わる仕事をしていた尾畑氏だが、20代後半になると心境に変化が訪れる。

「駆け出しの頃はすべてが新鮮で楽しかったのですが、仕事に慣れ、景気の良かった業界がバブルの終焉に向かうなかで、ハリウッドの世界も少し変わっていったように感じてきて、少しずつ心が離れていきました。当時は、なんというか“地に足が着いていない”感覚がありましたね」

仕事に大きなやりがいを感じつつも、自らの芯とは相入れない部分が大きくなっていく……そんな時期に先代蔵元である父の病気が重なった。

「治療すれば治る病気だったのですが、それを機に20代なりに“死”を考えるようになったんです。いつか世界が終わるなら私は何をしたいのかと。もし半年後にすべてが終わるなら、誰と会って何をするんだろう、最悪明日世界が終わるなら何をするだろう。そう考えたときに頭に浮かんだのが、子どもの頃に遊んだ仕込み蔵の風景。最期にしたいことは、自分の家の酒蔵でお酒を飲みたいんだと自然と思った。
『私のしたいことはこれだったんだ』と気づいたら、嫌なことや不安なことで悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなった。吹っ切れた気分でした」

こうして尾畑氏は29歳で佐渡に戻り、酒蔵を継いだ。

氏の半生を遡ると、どんなときも自分の芯を持ち、自らの強い意思で人生をコントロールしてきたようにみえる。多くの人がそうありたいと思うがなかなか実現では難しいその感覚はどこで身につけたのだろう。

「蔵元の家庭で育った環境の影響はあると思います。尾畑酒造はそんなに大きな酒蔵ではありませんが、良くも悪くも酒蔵の主。“自立自走”しないと生きていけない、自分でやるしかない、という感覚は小さな頃からありました」

八方塞がりの5年間と、その末に見えた光明

佐渡に戻った尾畑氏は、酒蔵どころか佐渡全体を変えてやろうという意気込みで尾畑酒造の変革に着手した。

「『新しい商品をつくろう、デザインを変えよう、あれもこれも変えよう』とものすごく鼻息荒く取り組みました。けれど、当時は佐渡と東京に流れる時間の速度がちがい、デザイン会社も印刷会社も蔵の従業員も反応が良くなくて。私の指示で何かを変えても、ちっとも業績は上がらない。それで父ともケンカしがちに。酒蔵も人間関係も変わらず、もちろん佐渡を変えるなんてとんでもない。結局何もかもまったくうまくいきませんでした」

この時期、尾畑氏は出産をして小さな子どもを抱えており、赤ん坊の世話と結果の出ない仕事の両立は困難を極めた。深夜まで働くことも珍しくなかったが、「八方塞がりで、本当に辛かった」と振り返る期間が5年も続いた。

何を変えても事態が好転しない失意のなか、ある日、気づきが訪れた。

「変えられるものがまだ一つある。それは“自分”だって気づいたんです。他人を変えるのは難しいけれど、自分なら思った瞬間に変われる。それに気づき蔵からどんどん外に出て行くようになりました。そうすると人間関係も変わり、周囲の人が私を見る目が少しずつ変わって、視野も広がっていった。
あともう一つ意識したのは『うまくいかないときは、何事も丁寧に』ということ。うまくやるって、難しいじゃないですか。でも、丁寧に取り組むのはきっと誰でもできる。だからとにかく丁寧に動き続けようと。
そんなことに気づくまではうまくいかないことを人のせいにしていた部分もあった。今は“人事を尽くして天命を待つ”。やるべきことをやったらあとはなるようになる、ということを受け入れられるようになったのだと思います」

5年のつらい月日があったからこそ、尾畑氏の仕事は軌道に乗りはじめた。そして氏にはそれまでとは異なる佐渡の姿が見えるようになってきたという。

「戻るときは『私が佐渡を変える!』と気負っていましたが、自分自身が変わって改めて佐渡を眺めると、そのままでも十分“宝の島”だったんです。自然や文化、人など、素晴らしいものがすでにそこにある。あとはそれを磨けばいい。わざわざ変える必要ないんだと」

自立自走できる酒蔵をつくり、そのモデルを地域に還元する

現在、尾畑氏は酒蔵での仕事に加え、佐渡の魅力を引き出し広める活動も行っている。その1つが廃校を再生した2つめの酒蔵「学校蔵」だ。
学校蔵では、お酒造りはもちろんのこと、蔵に滞在して酒造りを学ぶ「酒造り体験プログラム」や、著名人などが講師になるワークショップ「学校蔵の特別授業」などの取り組みを開催している。

「『特別授業』は、高校生から80代まで、幅広い年代の多様な人たちが集まります。年齢に関係なく、学んで成長するというのは幸せなことだと私は思うんです。しかも、多様な人たちが集まると化学反応が起き、それがどんどん広がっていく。そんな瞬間を見るのがとにかく面白い。

学校蔵の大きな目的の1つは、訪れた人たちの“想像力の閾値”を広げたいということ。「蔵には『酒造り体験プログラム』で多くの外国人も学びに来ていて、多様な世界観が広がっている。せっかく多様性に触れられる場所があるので、人と人をつなげられる場所になればと、カフェもオープンしました。学校蔵で実際にいろんな国の人や、大学の関係者たちと出会うきっかけがあれば、子どもの想像力の閾値がぐんと大きくなりますから。そういうきっかけになったらいい」

こうした出会いの場を生み出し、自身も地元の人と触れ合う機会の多い尾畑氏は、FRONTIER JOURNEY Vol.41で渡辺竜五佐渡市長が語っていたのと同じように、島の人たちの変化に気づいたという。

「20年前には『佐渡はダメだっちゃ』と多くの地元の人が口にしていましたが、最近は佐渡が大好きという住人が増え、自虐の声も少なくなりました。現在では、その地元愛が観光客にも伝わり、佐渡のキラキラがどんどん広がっている状態だと思います。もちろんまだまだ変えるべき部分はあるはずですが、かつての私のように否定的な気持ちで入るのではなく、『佐渡はよくやってるね』と寛容に向き合って、今の佐渡島に必要なことをしていけばいいと思っています」

最後に尾畑氏に今後の目標を聞いた。

「学校蔵は、資源もエネルギーもヒトも循環させるサスティナブル・ブリュアリーを標榜しています。さらに今後はゼロカーボン・ブリュアリーを目指しています。“自立自走”できる持続可能な地域づくりの一端になれたらいい。そんなモデルができれば、エネルギー循環、観光、防災などいろんな観点で、できることが増えていく。同時に、本社の酒蔵のほうも利便性とレジリエンスを高め、より素敵な場所にしていきたい。
交流を超えて“対流”が生まれるような場をつくり、そこに尾畑酒造のお酒があったら最高ですね」

尾畑酒造の社訓は『幸醸心』、酒造りを通して幸せを醸すことだという。困難に直面しながらも、学び、成長し乗り越え、自分の仕事を完遂すること。地域や周囲の人など自分以外の幸せのために懸命に動くこと。尾畑氏の半生は、多くのビジネスパーソンにとって示唆に満ちている。
氏の放つ“キラキラ”こそ、佐渡がよりかがやく場所になるためのエネルギーなのだろう。

Next Frontier

FRONTIER JOURNEYに参加していただいた
ゲストが掲げる次のビジョン

ゼロカーボン・ブリュアリーを実現し、自立自走できる地域づくりに貢献する。
編集後記

学校蔵の駐車場から階段を上がって旧校舎に足を踏み入れた途端、尾畑留美子さんのキラキラが待っていました。そこからは次々とお聞きしたいことが溢れ出して、取材させていただく方が落ち着かない体になってしまいました。
学校蔵では、太陽光パネルによる再生可能エネルギーを使い、副産物である酒粕や麹を施設内のカフェで提供するなどの取り組みを行って、サステナブルな日本酒造りを進めていました。「酒造り体験プログラム」や「学校蔵の特別授業」以外にも東京大学未来ビジョン研究センターや芝浦工大地域共創基盤研究センターのサテライト研究室との連携事業も行っているそうです。
「変わるのは自分」という気付きから、地域の人たちと共に佐渡の魅力を再発見するジャーニーを歩み始めた尾畑氏のお話は、2時間の映画の世界以上にリアルでキラキラしていました。

いかがでしたでしょうか。 今回の記事から感じられたこと、FRONTIER JOURNEYへのご感想など、皆さまの声をお聞かせください。 ご意見、ご要望はこちらfrontier-journey@sunfrt.co.jpまで。

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関連先リンク

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